令和3年に書いていた文章を見つけたので、ここにアディショナルエントリーの4回目として掲載することにします。
--------------------------------------------------------------------------------
さまざまな角度から見る大仏殿の風景のうち、見下ろして眺めることのできる場所の代表としては、若草山を挙げることができる。入江泰吉の代表作品にも、巨大な大仏殿を小さく視覚にとらえる、山上あるいは中腹からの眺めは特徴的だ。何十年も前に、この角度からの姿をスケッチしようとして、若草山に登ったことを思い出した。
柳生方面から般若寺あたりを経由して奈良市内に戻るときに、坂を下り始めたあたりの民家の屋根の間に大仏殿を眺めるさまは、若草山からの方向とはまるで異なってはいるが、壮大な印象を持つことができるのと同時に、自分自身の脳裏に組み込めるかのような、あるいは手に掴むことのできるかのような、征服感を味わうこともあるかもしれない。近くで見上げて、その規模を自分の経験などからとても処理できない程であるものを、掌で転がすことのできる、豆粒のようなものとして捉えて、それを意識の中でもてあそんでみる。そんな自分を満足させる眺めと言うものを、眼下に見下ろすことによって果たせるかもしれない。
東大寺からさほど離れていない地に立って、大仏殿を我が物にできるような眺めを楽しむことができるとすれば、長い歴史を自分の中に取り込むことのできるような錯覚をも覚えるだろうが、大仏殿の西およそ2キロの地点に、そんな場所がある。かつて日本初の夢のレジャーランドと言う華々しいうたい文句で、遊園地としての営業が始まった奈良ドリームランドが、今は廃墟となって栄光の姿をとどめえない奈良市北部のエリアから、それはさほど遠くない、北東方向から奈良に流れ込む佐保川の北岸段丘の低い山岳地帯の中にあって、市街の建物を見下ろして聳えているかのような多聞山。そこにかつてボルトガル宣教師ルイス・デ・アルメイダが白亜の建物を見た。山上に立つ天守はこの地を圧するかのようであり、周辺に整然と並ぶ屋敷とそれをとり囲む、やはり白壁を構える町並みは、城郭都市をイメージさせたかもしれない。周辺地との比高はおよそ30メートル。天守の屋根がほぼ大仏殿の屋根の位置に匹敵していた。
松永久秀が多聞山城を構えたのは永禄3年。奈良を威圧するその城から軍勢が大仏殿に向かったのは永禄11年の10月で、Wikiには興味深い文章が、ルイス・フロイスによる日記とともに、以下のように記されている。
当時の宣教師のルイス・フロイスは、三好軍中にいたキリシタン信徒が寺院仏像の破壊目的で放火したと記録している。『多聞院日記』には、
今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。
以上であるが、この文中に見られるように、三好の軍中にキリシタンがいたというのは、三好長慶の晩年に、現在の奈良県と大阪府の境界に近い飯盛山(いいもりやま)の城において、重臣らが洗礼を受けたという事実があり、その後かれらが松永久秀に敵対して戦陣を張っていたことになるが、久秀が南都寺院を憎んだというよりも、三好の軍勢(三好三人衆と呼ばれ、松永久秀と対立していた)が仏教に対して反感が強かったということになるのかもしれない。
海音寺潮五郎が、この三好三人衆と久秀の奈良での対立について、大仏殿に三好三人衆が本陣を張っていたことが大仏殿炎上の本質である旨記しているのを知ってはいたが、キリシタンの反仏教観の存在を重要視してはいなかった。ただ、自分たちの陣中にあった大仏殿をわざわざ焼くことが戦いを有利にするとは思えない。戦況が不利になってきたので、退却のために火を放ったというような理由があったと思えている。織田信長は徳川家康に久秀を紹介する際に、このお仁は人のなしえないことを三つまで成し遂げたという旨を話し、大仏殿を焼いたことをその一つに数えたが、三好軍のキリシタンの話が本当なら、久秀が主導して焼き払ったということではなさそうだ。
もう一つ気が付いたのは、フロイスが焼けたのは釈迦像だとしていることで、大仏が廬舎那仏であることの認識のないことだ。キリスト教徒から見た仏教と言うものが、その知識においては正確なものではないという証左でもある。同時に、記録された文章や証言というものには検証が必要だということで、文献学に対する一つの警告ともなるだろう。嘘や思い違いが後世に伝わることがざらにあるのは、数多くのことがらにおいて容易に推測できるはずなのだが。しかし芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」にあるように、釈迦が極楽にいるはずがないのに、阿弥陀如来と混同してその物語を書いたのは、彼の仏教観についての無知を示すもので、この文学を世に示した人々もまたそれに気づいていないのであるから、フロイスの書き誤り、というよりも思い込みによる個人的常識を責めることはできないかもしれない。
さて宣教師アルメイダが壮麗な城構えだと多聞山城を感じたのは、その壁の白さが大きく影響している。現在でも姫路城が新たな漆喰の色の白さによって、白すぎ城だと言われるくらいに、周囲の風景が遠方に行くほど明度と彩度が落ちるという、空気の存在による色彩印象が、漆喰壁の白さには通用しないと思えるくらいであるが、久秀の多聞山城には、その天守の壮大さとともに、圧倒的な視覚効果があったことになる。きのうちょうどTV番組において、沖縄の地下鍾乳洞を紹介していた中で、普通見知っている鍾乳石の茶色がかった白濁色ではなく、純粋に白の極限とまで思わせるような純白の鍾乳石は圧巻だった。日本で近代的な城郭の濫觴となったと言われる多聞山城の、そのような白の存在感が時代の象徴とも言えるのだが、私がそこを訪れた10年前の初夏に感じたのは、壮麗だった城構えや家臣の屋敷は何一つ残っていないという状況と、わずかに空堀の跡を目に映した空虚さだった。その城跡には若草中学校の校舎が現在あり、時代の流れをいっそう感じたのである。
私は多聞山城跡から、視界を遮るかのような木立の隙間から、300ミリのズームレンズを駆使して、東大寺大仏殿(画像1)や興福寺五重塔(画像2)を撮影した。いや、大仏殿は位置を変えて撮ったかもしれない。この城の立地条件は、まさに久秀が南都を我が物にしようとする意図を示していたとも言えるほどだ。400年以上の時を経て、私もまたその気分を味わったということなのだが、一度訪れただけのその地にも、絵を描くための構図を求めて、また出かけたいと思っている今である。
上記文章を書いてから、過去のファイルを探したところ、多聞山城について書いた一文が見つかった。それは次のような一節である。
築城は永祿2年。堺を本拠として近畿各地を攻略しつつあった三好長慶の家宰として、久秀は佐保川に臨む小高い地に白羽の矢を建てた。100畳の畳を運び込んだと言われる建物は豪華絢爛たるものであったという。能舞台を設け、塀にも櫓にも天守にも光る白壁を塗り、美しい庭を配し、永祿8年に訪れた宣教師アルメイダを驚嘆させた。だがその三年後に上洛軍を動員した織田信長の軍門に下り、さらに9年後に城は破却される。久秀が信貴山城で最後を遂げるのも同じ年のことであった。
本文中の築城年とは一年違っているのは私の思い違いか。100畳の畳や能舞台のことなど、今は忘れてしまっている記述もここにはある。書いておくものだと、あらためて思った次第である。また、その文章の最後には、車で出かけたのではなく、帰りは転害門まで歩いてバスに乗ったことを書いている。そうすると、どこに出かけたついでだったのかとか、その日の都合も思い出したいところだが、それはもう記憶にはない。